a sin of Portrait
グレース・ケリーとハウエル・コナンの関係が、肖像表現の「光」であるならば、これは「影」の話。
[Grace Kelly & Howell Conant]
www.flickr.com/photos/kiguma/4958908563/in/set-7215762476...
よく、
「人の肖像を撮影するだけではなく、さらにレタッチして、自分の意図の方向に改変するのは、とても罪深い事なのではないか?それを本人は喜ばず、また、ファンも求めず、単なる自己満足なのではないか?」
という、ご意見を頂きます。
グレース・ケリーとハウエル・コナンの関係は
・被写体本人が写真の選別(色調再現)に深く関わっている
・撮影者と被写体に相互理解がある
という事に集約され、それを非定型にしてみると
・被写体本人が写真の選別(色調再現)に<関わっていない>
・撮影者と被写体に相互理解が<ない>(面識すらない)
という内容になり、これに該当する写真表現は
(a)ファンが撮影した自分の為の写真(選手に許諾を得たモノではない)
(b)パパラッチによるゴシップ・フォト
(c)盗撮
この3点の特徴は
・被写体の許諾を得ていない写真
という点でイーコールですが、我々が受ける印象はまったく違います。
ひとつづつ、内容を検証してみましょう。
(a)ファンが撮影した自分の為の写真(選手に許諾を得たモノではない)
<撮影理由>
・被写体、状況への憧憬
・瞬間への所有欲
<目的>
・ほぼ自己満足であり、一部自己顕示欲の充足
(b)パパラッチによるゴシップ・フォト
<撮影理由>
・被写体の市場性のある瞬間の獲得
・美的である必要はなく、ショッキングでセンセーショナルであればよい
<目的>
・換金性
(c)盗撮
<撮影理由>
・性的イメージを喚起させる瞬間の獲得
・ベクトルは違うが、ある意味、独自の美意識の顕在化
<目的>
・ほぼ自己満足であり、一部自己顕示欲の充足
(b)のゴシップフォトは、「換金性」という明確な目的の違いがありますが、(a)ファンの写真、(c)盗撮 には、言葉にすると、それほど明確な違いはないように思えます。
たぶん、3件の際だった違いは、とてもシンプルに
「被写体に対する愛情の有無」
かもしれません。
パパラッチに基本、愛はありません。被写体は、市場性のある瞬間を提供するジェネレータであり、それをハントしているのです。
盗撮は、自分の性的欲求の充足が第一です。執着はありますが、被写体は、これもジェネレータであり、手段です。
(a)だけが、憧憬という愛を元に撮影されています。
ファンと盗撮は、ともに「自己満足の充足」というベクトルを持っていますが、、被写体の捕らえ方に、「手段」と「目的」という違いがあります。
レタッチをする事と、オリジナルの問題については、Ustで何回も言っているのであえて繰り返しません。
(端的に言うと、撮影時点で選択した露出、フレーミング、画角全てが全てレタッチなので、比較する事には意味がない、という話でした)
ただ、人物の写真を「自分の表現の手段」として使うと考える場合、盗撮とかなり境界線があやふやになります。
どちらも被写体が「素材」であるからです。
ファンの撮影は「被写体への憧憬」によって完結しているので、それは純粋に「愛情」として認識できるのですが、そこから「自己の表現」として転換した場合、限りなく盗撮に近くなるともいえます。
もちろん、愛情があるからこその、自分の内面の表現ではあるのですが。
結局、唯一の違いは、
「自己表現手段としての肖像作品は、自分の内面の吐露だが、それは被写体へのメッセージ(手紙)である」
という事です。
「私にはあなたが、こう見える。あなたは、この私のメッセージをどう思う?」
という手紙だといえます。
盗撮は、基本、自己か、あるいは、自己と同じ価値観の被写体以外の第三者への広がりしかなく、そのメッセージが被写体に向かう事はありません。
でも、やはり、それが愛情や憧憬からであれ、人の姿見を使い、自己を表現する、という行為は、同意の上であれ、他者の権利を侵害しているという事は否めないです。
20世紀最大の肖像写真家と言われた、アンリ・カルティエ・ブレッソンも、その晩年に、
「ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。」
という言葉を残して、画家に転身します。
そのバランスは非常に難しく、デリケートで、難解です。
だから、僕が被写体であるレーサーに積極的に接触したいと思うのは、相手の為、というよりも、自分のその「罪」を少しでも軽くしたい、という思いからかもしれません。
おそらく、冒頭の質問をされた方達は、その辺りの違和感を感じているのでしょう。
これは理屈で割り切れるものではなく、納得のいく答えもありません。
一人の、被写体になっていただいた女性の感想。
「こんなアップでの写真は見た事がなかったので、とても驚いたし、アップに耐えられるギリギリでした(笑)。
でも、このレースの、この時、自分が何を考えていたか、それを思い出しました。」
a sin of Portrait
グレース・ケリーとハウエル・コナンの関係が、肖像表現の「光」であるならば、これは「影」の話。
[Grace Kelly & Howell Conant]
www.flickr.com/photos/kiguma/4958908563/in/set-7215762476...
よく、
「人の肖像を撮影するだけではなく、さらにレタッチして、自分の意図の方向に改変するのは、とても罪深い事なのではないか?それを本人は喜ばず、また、ファンも求めず、単なる自己満足なのではないか?」
という、ご意見を頂きます。
グレース・ケリーとハウエル・コナンの関係は
・被写体本人が写真の選別(色調再現)に深く関わっている
・撮影者と被写体に相互理解がある
という事に集約され、それを非定型にしてみると
・被写体本人が写真の選別(色調再現)に<関わっていない>
・撮影者と被写体に相互理解が<ない>(面識すらない)
という内容になり、これに該当する写真表現は
(a)ファンが撮影した自分の為の写真(選手に許諾を得たモノではない)
(b)パパラッチによるゴシップ・フォト
(c)盗撮
この3点の特徴は
・被写体の許諾を得ていない写真
という点でイーコールですが、我々が受ける印象はまったく違います。
ひとつづつ、内容を検証してみましょう。
(a)ファンが撮影した自分の為の写真(選手に許諾を得たモノではない)
<撮影理由>
・被写体、状況への憧憬
・瞬間への所有欲
<目的>
・ほぼ自己満足であり、一部自己顕示欲の充足
(b)パパラッチによるゴシップ・フォト
<撮影理由>
・被写体の市場性のある瞬間の獲得
・美的である必要はなく、ショッキングでセンセーショナルであればよい
<目的>
・換金性
(c)盗撮
<撮影理由>
・性的イメージを喚起させる瞬間の獲得
・ベクトルは違うが、ある意味、独自の美意識の顕在化
<目的>
・ほぼ自己満足であり、一部自己顕示欲の充足
(b)のゴシップフォトは、「換金性」という明確な目的の違いがありますが、(a)ファンの写真、(c)盗撮 には、言葉にすると、それほど明確な違いはないように思えます。
たぶん、3件の際だった違いは、とてもシンプルに
「被写体に対する愛情の有無」
かもしれません。
パパラッチに基本、愛はありません。被写体は、市場性のある瞬間を提供するジェネレータであり、それをハントしているのです。
盗撮は、自分の性的欲求の充足が第一です。執着はありますが、被写体は、これもジェネレータであり、手段です。
(a)だけが、憧憬という愛を元に撮影されています。
ファンと盗撮は、ともに「自己満足の充足」というベクトルを持っていますが、、被写体の捕らえ方に、「手段」と「目的」という違いがあります。
レタッチをする事と、オリジナルの問題については、Ustで何回も言っているのであえて繰り返しません。
(端的に言うと、撮影時点で選択した露出、フレーミング、画角全てが全てレタッチなので、比較する事には意味がない、という話でした)
ただ、人物の写真を「自分の表現の手段」として使うと考える場合、盗撮とかなり境界線があやふやになります。
どちらも被写体が「素材」であるからです。
ファンの撮影は「被写体への憧憬」によって完結しているので、それは純粋に「愛情」として認識できるのですが、そこから「自己の表現」として転換した場合、限りなく盗撮に近くなるともいえます。
もちろん、愛情があるからこその、自分の内面の表現ではあるのですが。
結局、唯一の違いは、
「自己表現手段としての肖像作品は、自分の内面の吐露だが、それは被写体へのメッセージ(手紙)である」
という事です。
「私にはあなたが、こう見える。あなたは、この私のメッセージをどう思う?」
という手紙だといえます。
盗撮は、基本、自己か、あるいは、自己と同じ価値観の被写体以外の第三者への広がりしかなく、そのメッセージが被写体に向かう事はありません。
でも、やはり、それが愛情や憧憬からであれ、人の姿見を使い、自己を表現する、という行為は、同意の上であれ、他者の権利を侵害しているという事は否めないです。
20世紀最大の肖像写真家と言われた、アンリ・カルティエ・ブレッソンも、その晩年に、
「ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。」
という言葉を残して、画家に転身します。
そのバランスは非常に難しく、デリケートで、難解です。
だから、僕が被写体であるレーサーに積極的に接触したいと思うのは、相手の為、というよりも、自分のその「罪」を少しでも軽くしたい、という思いからかもしれません。
おそらく、冒頭の質問をされた方達は、その辺りの違和感を感じているのでしょう。
これは理屈で割り切れるものではなく、納得のいく答えもありません。
一人の、被写体になっていただいた女性の感想。
「こんなアップでの写真は見た事がなかったので、とても驚いたし、アップに耐えられるギリギリでした(笑)。
でも、このレースの、この時、自分が何を考えていたか、それを思い出しました。」