かつてルソーの語る山岳美によって初めてヨーロッパ・アルプスの美が「発見」されたように、風景というものは「語られること」によってのみ「発見される」ものなのだと、僕も思う。

 

「風景」は「そこにある」ものではない、何者かによって語られる限りにおいてのみ存在するものなのだ、と。

 

いま僕は自分がなぜ蓼科の風景の美しさについて語り続けてきたのか、その意味を知った。

 

そこに「風景美」が存在し続けるためには、誰かが「語り」続けなければならないからだ。

 

しかし蓼科が美しいと言うことを語らなければこの、いま僕の眼前にある美しい風景は無かったことになってしまうのだろうか。

 

どうもそうとは信じられないけれど、もしかしたらそうなのかもしれない。

 

なぜならば風景の本質に「美」は含まれないからだ。

 

そもそも「風景」は当初より存在するものではなく、それを見る第三者によって認識論的に「構成」されるものだから。

  • JoinedJanuary 2011
  • OccupationOwner of "Pension Sunset" (a guesthouse in Japan)
  • HometownYokohama
  • Current cityChino,Nagano
  • CountryJapan

Testimonials

Nothing to show.